ともちんの歴史探訪

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2015/09/08 22:49

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天ケ城は、宮崎県宮崎市高岡町に所在する山城で、高岡城、内山城とも呼ばれる。
島津義弘により築城、命名されたと言われているが、それ以前には内山氏の居城であったとも言われている。
しかし現地案内板では義弘命名以降の説明が大半であった。

関ヶ原で敗れ、命がけの敵中突破、島津の退き口を遂げた義弘一行は船にて宮崎県日向市の細島に上陸、国富町の八代にて一泊する。
その日の夜、伊東氏の家臣で清武城主、稲津掃部助が宮崎城を攻撃、義弘宿泊の集落一帯を放火する。この事態に際して義弘は命からがらの帰薩を果たし、方々からの救援により稲津の攻撃も撃退するに至った。
この事件で国境警備の重要性を悟った義弘は宮崎市高岡町に城を築き、天ケ城と名付けた。

古来高岡町は鹿児島へ通じる主要な幹線道路が交わる要衝の地であり、高岡町から都城を経て鹿児島に至る道筋は「高岡筋」と呼ばれていた。
天ケ城の麓には関所が置かれ、徳川幕府成立後も厳しい出入国管理がなされた。
薩摩は琉球や中国との密貿易で巨額の利益を上げていたので、幕府にそれを悟られぬように国外からの入国者には監視のため薩摩藩の役人が同行したほどである。

天ケ城が廃城となった後も、高岡外城(郷)として重厚な塀、生垣に囲まれた武家屋敷群が城下に並び、郷士が居住してその支配体制は明治まで続いた。

ーこの城の強さー
広大な面積がもたらす強大な兵員収容能力であると言えます。
廃城後、その強みは田畑へ、そして県内随一の桜の名所へと変貌を遂げた。