ともちんの歴史探訪

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2015/09/08 22:49

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廻城[鹿児島県霧島市福山町福山]

別名:仁田尾城

治承四年(1180)、源頼政が以仁王と結託して平家滅亡を企てるも、事前に察知されて返り討ちになる。
その際にその子らが福山の地に入るとなり、居城を構えたのがこの城の起源と言われている。

彼らが土着したのち、姓を地名から取って廻氏とし、その地は子々孫々に受け継がれていった。

天分十七年(1548)、周囲の敷根氏、上井氏とともに島津貴久の軍門に下る。

永禄四年(1561)5月14日、城主廻久本は病で盲目、その子は未だ幼少だった隙をついて肝付兼続が廻城を攻撃、奪取した。
島津氏は急報を受けるとすぐに出兵、廻城一帯に隊を布陣した。
島津貴久と義久率いる本軍はこの時、廻城を一望できる唯一の高台である惣陣ヶ丘に布陣。
同年7月12日、肝付方の兵が竹原山に奇襲。
「竹原山危うし」の報を受けた島津忠将(貴久の弟)は57名の寡兵ではあったが救援を試みる。
途中家臣から敵の伏兵を避けるために撤退を進言されたが、これを一蹴して竹原山に向けて馬を走らせた。

その道中、家臣が恐れていた伏兵に包囲され、惣陣ヶ丘の援軍が到着した頃には忠将以下の将兵はほとんどが討ち取られていた。

忠将の訃報を耳にした貴久は激怒し、全軍に城攻めを命じ、最終的には城の奪還に成功した。

廻城は、南北を崖に挟まれた天険の要塞である。
西側、大手口からの登城は困難であると考えています。
搦手口には舗装された道路もあり、容易にアクセスできます。

城内はなかなかの荒れ具合で、藪漕ぎ覚悟である。
ー参考資料 ー
福山町郷土史
国分郷土誌
鹿児島県史
日本城郭大系
三国名勝図会
鹿児島県の中世城館跡 調査報告書
インターネット
地理院地図